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1943年東京生まれの希林さんは、61年に文学座に入り、
一度目の結婚をしていますがその後離婚。
テレビドラマを中心に活躍。
その代表作のひとつが、西城秀樹さんと共演した「寺内貫太郎一家」だった
(当時はデビュー時の芸名・悠木千帆)。
すごい人気で毎週欠かず見ていました。
その時にはすでに老婆役だったけれどあの時はまだ30代で「ジュ―リ~」と演じていま
した。
学校でも、みんなマネして「ジュ―リ~」が流行ったものです。
ある番組だったかの企画でタレントさんがチャリティーで自分の物を売って、
その売り上げを寄付するというので
樹木希林さんが自分の名前を売って、
その後、樹木希林となったのですごく印象に残っていて、
その時から他の人とはちょっと感覚が違うなぁって
思っていました。
70年代後半には「美しい人はより美しく、そうでない方はそれなりに」の名コピーで知ら
れる富士フイルムのCMも。
あのセリフは樹木希林さんがありふれたセリフをアドリブで直して「そうでない方
も。。。」となったそうです。
郷ひろみとデュエットで歌ったのも印象的でした。
あの頃から、他の女優さんとは一味違う独特の雰囲気がありました。
網膜剥離になった時も、「今まで色々な物が見え過ぎた」と達観したコメントを発表し
て、一切の治療を受けなかったそうです。
でも、朝起きて何も見えなくなった時は一瞬絶望感が襲って来たらしいですが、
手術も受けずにその時ばかりは手術すれば治るものをどうして治療しないのだろうかと
不思議に思ったものです。
也哉子さんもそう思ったのではないでしょうか。
その後は映画に出演し、『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』と『悪人』で日
本アカデミー賞最優秀主演女優賞、
『半落ち』で最優秀助演女優賞に輝き、
日本映画界に欠かせない存在として多くのファンと映画人に愛され、
独特の存在感を持っていました。
惜しい方を亡くしたと言わざるをえない。
樹木希林さん(享年75歳)が9月15日、自宅で家族に見守られ、この世を去りました。
ご自宅の応接間には、病気になってからはモノを持たないということで綺麗に片付けら
れ、グランドピアノと最小限の家具しかなかったらしいです。
17日の午後には、自宅前で長女・内田也哉子とその夫の本木雅弘、今年モデルデビューし
たUTAこと雅樂など3人の孫らに見送られました。
内田裕也さんは最期には間に合わなかったらしいですが、病院では危篤になる何日か前か
ら内田裕也さんに会いたいともらしていたそうです。
彼女は'13年に'13年の『日本アカデミー賞』の最優秀主演女優賞に輝いた壇上で、全身13
か所に転移した“全身がん”を告白しています。
'04年に乳がんと診断され、その後'08年には腸、そして副腎、脊髄への転移が発覚、'13年
に“全身がん”と宣告されたそうです。
現在は抗がん剤治療などはせず、鹿児島にあるクリニックで時折、“ピンポイント照射”放
射線治療を受けるのみの状態です。
そんな状態でも、カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した映画『万引き家族』に出演する
など、がんの影響を感じさせない姿が感動しました。
癌というと松田優作を思い出しますね。
彼も癌とわかっているのに治療せずにがんと闘って、映画を撮っていました。
内田裕也(うちだゆうや)さんが逮捕されてしまった時、樹木希林(きききりん)さんはメディ
アに対して
「籍を入れた責任上、どうするかを考えながらいきたい。」と、謝罪しました。
「夫1人だけ奈落の底に落として、自分だけ保身ということはしません。」と、宣言。
彼女のカッコよさはこういうところではないでしょうか。
生活面で一切援助を求めるとか養育費とか言う事はなく、自分の稼ぎで家を建て、生活を
して子供も育てて
その上、旦那の不始末の責任もきちんと受けて立って。
石けんはひとつしか持たず、それで身体も食器も衣服も洗う。お経をあげるのと、掃除を
するのが日課だそうです。
モノを大切にする”というポリシーを持っていて、
メディアに出演する際は、必ず前から持っている洋服をアレンジして着て
最近は、也哉子ちゃんや本木さんが着なくなった洋服をアレンジしたものを着こなされて
いたそうです。
ブランドとかに左右されないご自身がブランドでしたね。
仕事もマネージャーはつけず、ひとりでスケジュール管理をして、ご自身で現場に向か
う。
「私、とにかく今、一人でやっているでしょ。ここに来るのも一人、何をするのも一人。
誰かに頼むと、その人の人生に責任を持てないから。」と潔いです。
スタイリストをつけない理由を、「役者として、人物を演じるというのはとにかく、普通
の生活をしなければいけないと思うんですよ」と語っていたそうです。
1980年代に内田裕也さんが役所に離婚届を提出するも、
樹木希林さんは訴訟を起こしてまで離婚を拒絶し続けました。
最近になって離婚して早く自由にさせてあげればよかったと、一度は考えを改めたようで
すが
それを内田裕也さんに伝えたところ、「いやこれで良かったんだよ」と逆に諭されたとい
うのです。
夫の内田とは「年に1回会うか会わないか」と話していた樹木。
結婚生活は今年で45年となるが、別居生活は30年と、近年はほとんど一緒に過ごしていな
い。
奇妙な熟年夫婦ですが、今年の夏に内田さんを特集した『ザ・ノンフィクション』(フジ
テレビ系)が放送されて、
希林さんがナレーションを担当していたんですが、“あの人、カッコいいのよ”と自慢げに
言っていたというのでちょっと驚きましたねとスタッフは言っています。
ガンの手術をした際にも「嫌な話になったとしても、顔だけは笑うようにしているの
よ。」と、言っていました。
「井戸のポンプでも、動かしていれば、そのうち水が出てくるでしょう。同じように、面
白くなくても、にっこり笑っていると、だんだん嬉しい感情が湧いてくるのよ。」と。
病気してからも普通に食べるし飲むし。無理してる感じはないのよね。
年をとっていくことに対して何も抵抗ないから、苦労もないし。もともと少欲なの。
仕事については、基本的に来た順番に引き受けているだけ。
あまり先のことだと、わからないからお断りすることもあるけどね。
希林さん自身の人生の最期には、裕也さんが歌う『朝日のあたる家』を聴いて逝(い)き
たいという。
「死ぬときぐらい好きにさせてよ」ですね。
その後に樹木希林さんは、裕也さんの「全部、好きです。すべて何もかも好きです。
もし、来世というものがあって、生まれ変わることがあるのなら、
また巡り合うことがないように。
出会わないように、気をつけたいわね」と、続けています。
なぜか素敵な言葉ですね。
出会いたくないと言っているのに、拒否していない。
今年は映画に3本出て、『エリカ38』(希林さんが企画した遺作)も撮り終えた。
まだ元気だったらできるんだけど、そろそろ休もうかな。
孫もデビューしたし、新しい世代に任せようと思う”
人生をまっとうした希林さんは、そうおっしゃったそうです。次世代へと渡すと─。
ときには毒舌と称されることもあった希林さんの発言ですが、
日本映画界、社会全体への愛にあふれていて、希林さんのカウンターパンチは、生きづら
さを感じる現代人にとって、多くの気づきをもたらしてくれました。
私もこういう風に生きたいと思った方もたくさんいるのではないでしょうか。
晩年は、大病を患ったからこその希林さんの死生観もクローズアップされましたね。
癌になっても、身体を切り刻む治療はしない。
そして、多くの作品を残してくれました。
彼女のたくさんのメッセージと共に。
やったことがほんのわずかだもの。
やり残したことばっかりでしょう、きっと。
一人の人間が生まれてから死ぬまでの間、
本当にたわいもない人生だから、
大仰には考えない。
靴下でもシャツでも最後は掃除道具として、
最後まで使い切る。
人間も、十分生きて自分を使い切ったと思えることが、
人間冥利に尽きるということだと思う。
自分の最後だけは、きちんとシンプルに始末することが最終目標
私は「なんで夫と別れないの」とよく聞かれますが、
私にとってはありがたい存在です。
ありがたいというのは漢字で書くと「有難い」、
難が有る、と書きます。
人がなぜ生まれたかと言えば、いろんな難を受けながら
成熟していくためなんじゃないでしょうか。
がんはありがたい病気。
周囲の相手が自分と真剣に向き合ってくれますから。
ひょっとしたら、この人は来年はいない
かもしれないと思ったら、その人との時間は大事でしょう?
そういう意味で、がんは面白いのよ。
見事としか言えないです。
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